よく「私の天職はどこかにあるはず」「天職を探している」とか聞くけど、個人的な結論としては、天職はない。
「自分にはどこかに天職があるのではないか」という勘違い
「天職があれば青天井に稼げる」「天職ならば好きで仕事ができる」と思うかもしれない。
しかし、それは幻想である。
天職なんてものは、人様が勝手にでっち上げた物でしか過ぎない。
その道で仕事ができる人のことを、なんとなく表しやすい言葉として、「天職」を使っているに過ぎない。
天職と言われるひとも、環境や親による影響が多い
だいたい仕事で活躍するひと、例えば職人であったり、有名人やスポーツ選手であったりするひとは、環境や親による教育が大きく影響していることが多い。
小さい頃から、ある仕事に対する環境や教育が整っていて、それが普通に身につくような流れになっており、その仕事で稼げるようになっているから、周りでも「天職」と言われたりする。
でも、それって実際は運要素が強いし、誰でも恵まれた環境にいるわけではない。
もちろん本人の努力もあるだろうけど、環境や親の教育、はたまた遺伝などに影響する部分は、かなり多いはず。
なので、それらがあって、今の活躍できる立場があるわけで、環境も教育も遺伝も違うひとたちに対して、同じように「天職」という言葉でイメージづけるのは酷な話である。
所詮、「天職」という言葉は、ある分野で稼げるようになった人たちへの誰かが作り上げた都合の良い言葉でしかない。
だいたい「天職」という言葉があることで、多くのひとがその言葉に惑わされ、無駄に悩むひとたちが多い。
そのような苦しんでいる方たちにこそ、「天職なんてものはない」と伝えたい。
その言葉に惑わされているだけだ。
「好き」だけで食えるわけではない
また、仕事は好きだけでは食えない。
「三度の飯より好きな仕事=天職」ではない。
いくら三度の飯より好きな仕事だろうと、世間の需要がなければ、稼ぐことはできない。
「天職」という言葉が格差を生む
そもそも「天職」という言葉が格差を生んでいる。
まるで「天職」ではない仕事についている人間が下かのような印象である。
誰が作ったか知らないが、訳も分からぬ言葉で、見下される筋合いもないし、自ら卑下する必要もない。
その仕事がなんとなく得意かを基準にせよ
要するに、「天職」という言葉自体が、運要素強く、またデタラメであり、くだらないのだ。
だから天職なんて考えなくてよいし、目指さなくていい。
もし、仕事を選ぶならば、好きではなく、「なんとなく得意そうな」仕事を選ぶこと。
他のひとより、なんとなく得意そうな仕事が見つかれば、稼げる可能性が高い。
無い天職を探すだけ無駄なので、とりあえずやってみろ
もし、なんとなく得意そうな仕事が見つからないならば、とりあえず片っ端から仕事をしてみることだ。
そうすればいつか得意そうな仕事が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。
もっともこれも運要素があるので、難しいことは考えず、とにかく動いてみればいい。
とにかく、天職を探すだけ、悩むだけ無駄である。
今日の食い扶持のために、金に困っているならば、とりあえず働けば良い。